『東京ジョー』の<キャバレー 東京ヂヨー(亞炭産業會館)>はどこだ?

タイトル画

『東京ジョー(原題:TOKYO JOE)』
1949年製作、アメリカ、サンタナ映画、コロンビア映画配給
日本公開は、1993/12/18

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写真下に記載した「h:mm:ss」は、本編開始時からの経過時間です。おおよその経過時間と考えてください。

文中に《数字,数字》 の箇所がありますが、これはグーグルマップで認識する緯度経度です。リンクを張っているので現在の地図を参照することができます。また、この緯度経度を使用してグーグルマップで検索するとその場所が表示されます。

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文章内で[この色]この吹き出しに補足説明が表示されますで着色されている文言には補足説明が付加されています。着色された文言の上にカーソルを重ねてみてください。


はじめに

1949年製作のアメリカ映画『東京ジョー(原題:TOKYO JOE)』をご存じだろうか。主演はボギーことハンフリー・ボガート。戦前は東京の銀座二丁目でキャバレーを経営していた退役軍人ジョー役。冒頭でジョー(ハンフリー・ボガート)が東京の町を歩くシーンがあるのだ。と言っても本人は来日しておらず、特撮を用いてさも東京で行動しているように見せかけているのである。その背景映像(文末の参考資料を参照)には当時の東京の様子が記録されている。

在野のロケ地調査趣味の方々が色々と調査結果を公開しているが、本稿では誰も着手していない2025/3/20時点で場所<東京ヂヨー(亞炭産業會館)>を取り上げたいと思う。

余談だが、本作『東京ジョー』に写っている<白雲堂>についてもロケ地探しを行っている。是非そちらの投稿もご覧いただきたい。→コチラ

<東京ヂヨー(亞炭産業會館)>は、ハンフリー・ボガートが輪タクで街を移動して到着した場所に建っているキャバレーである。果たしてここはどこだろうか、撮影場所を探してみよう。

調査開始

まずは目的地のキャプチャ画像を見てみよう。(写真-0:06:48)を見て分かると思うが「キャバレー 東京ヂヨー」は亞炭産業會館の建物内で営業をしていると思われる。店名看板は大道具のようだが、「亞炭産業會館」の名称部分は元々この建物に設置されているものであるように見える。

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ジョー(ハンフリー・ボガート)が輪タクに乗車した時、行き先を「2チョウメ、ギンザ」と指示しているが、騙されてはいけない。物語の中では銀座二丁目なのだが、建物の実際の所在地はそこにあるとはかぎらない。それを明らかにしていこう。

さて、いつものようにWeb上での検索から始めてみる。<亞炭産業會館>は旧字体を使っているので新字体に置き換えたりして検索するも今回の目的に合致した情報は簡単には見つからない。しかし調査の糸口となる情報を見つけることができた。

見つけたのは『新國會名鑑 昭和24年』(時事新報社)。これは議員の住所録というようなもので、<亞炭産業會館>を連絡先住所としている人が2名載っていた。それによると<亞炭産業會館>の住所はそれぞれ「赤坂溜池一一」、「赤坂溜池町一一」(一は漢数字、つまり11番地)となっている。町名の表記に揺れはあるが、当時の住所で「港区赤坂溜池町11番地」(現・港区赤坂2丁目4)である可能性が出てきた。

<亞炭産業會館>を連絡先としている上記2名のうちの一人は「山口六郎次」という方。この方はウィキペディアにも掲載されており、名のある政治家だったようだ。住所の確度を上げるため、この山口氏について調べると、『讀賣政治年鑑 昭和24年版』、『選挙総覧 昭和24年總選擧・國民審査』、『選擧總覽 1949年 新國會』に記載されているのを見つけることができた。

各資料の記載内容比較
書名 掲載
ページ
記載内容
新國會名鑑 昭和24年 84 赤坂溜池町一一 亞炭産業会館
讀賣政治年鑑 昭和24年版 622 港区溜池一一 亞炭工業会館
選挙総覧 昭和24年總選擧・國民審査 112 港区溜池町一の一一 亜炭産業会館
選擧總覽 1949年 新國會 174 港区赤坂溜池一ノ一一 亞炭産業会館

記載内容には表記の揺れはあるが、やはり<亞炭産業會館>の所在地は「港区赤坂溜池町11番地」とみてよいだろう。住居表示が変更になっているので現在の住所では「港区赤坂2-4-5」である《35.671900966779496, 139.74110822026032》

さて、確認のため当時の地図を参照してみよう。1949年の地図がなかったので1952年の火災保険特殊地図を見てみた。

赤坂溜池町付近(1952年)
赤坂溜池町付近(1952年)

すると「港区赤坂溜池町11番地」の場所は「自動車部品会館」となっているではないか。これはどういうことであろうか。

赤坂区溜池町付近(1934年)
赤坂区溜池町付近(1934年)

まずは時代を遡って戦前の火災保険特殊地図を見てみよう。<亞炭産業會館>の場所は「京北ビル」となっている。果たして「京北ビル」=<亞炭産業會館>なのであろうか。

『日本紳士録 40版(昭和11年)』、『職業別電話名簿 第24版』、『全ハガネ商聯盟会報 昭和16年3月号』などで京北ビルの住所は「赤坂区溜池11番地」であることが確認できただけ。このビルがいつ建てられてその後どうなったかのか(空襲被害の有無など)は分からなかった。

残念ながら過去の地図からの調査は実を結ばなかった。

0:06:39
0:06:39

(写真-0:06:39)は(写真-0:06:48)の<亞炭産業會館>正面に至るまでの1カットの冒頭部である。輪タクの後方に八百屋が写っている。そして輪タクは鈍角の交差点を左折して「亞炭産業會館」前で停止する。まさしく赤坂溜池町付近(1952年)地図の通りなのだが…。

自動車産業_1949年1月号_P25_edit

気を取り直して「自動車部品会館」について調べてみることに。『自動車産業 1949年1月号』の25ページ左下の囲み記事に「移轉ご通知」とあり、書かれている移転先住所はまさしく「港区赤坂溜池町11番地」となっている(左図)。
さらに調べていくと、『月刊自動車部品 1971年6月号』の7ページにある巻頭言に興味深い記述を見つけた。そのページの一部を示す。

月刊自動車部品(1971年6月号)、7ページ(一部分)
月刊自動車部品(1971年6月号)、7ページ(一部分)

この記述から戦後数年間はこの住所「港区赤坂溜池町11番地」には<亞炭産業會館>が存在していたが、買収されたため1949年3月以降は「自動車部品会館」となったことが分かった。

0:06:49
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さて、続いては別角度から検証してみよう。(写真-0:06:49)と(写真-0:06:51)は映画のお話上では<亞炭産業會館>を背にして撮影したショットである。この背景映像は実際に<亞炭産業會館>を背にして撮影したものではない可能性も否定できないが、ここでは現地で本当に<亞炭産業會館>を背にして撮影したもの、と仮定して考えていくことにする。

まず分かることは、<亞炭産業會館>に面している通りには複線の路面電車の併用軌道が存在していること。次に(写真-0:06:51)の中央の電信柱の脇に停車している自動車の向き、その後方の(イ)の建物の側面の角度から自動車が停車している道路は電車通りに対して斜めに交差しているということがわかる。まさに前出の「赤坂溜池町付近(1952年)」地図と同じである。

続いて(イ)の建物について調べてみよう。『東京都商工区分地図 1953年 千代田区』を見ると(イ)の場所は「中小企業庁」となっていた。中小企業庁は1948年8月1日に開庁、当時の住所で「千代田区永田町2丁目1番地(現・永田町2-3-1)」となっている(『中小企業対策のあらまし』より)。(写真-0:06:49)の(イ)の建物が本当に中小企業庁なのかを確認するため当時の中小企業庁の外観の写真を探してみたが見つからない。そこで中小企業庁の開庁前にはこの場所は何だったのかを調べるため『火災保険特殊地図 麹町區戦前は永田町付近は麹町区。昭和22年3月15日、麹町区と神田区を合わせて「千代田区」が誕生(1935年)』を見ると、この建物は「東京鑛山監督局」となっていた。東京鑛山監督局の外観写真は『東京鉱山監督局五十年誌』本書の装幀は、棟方志功の前付け部分に見つけることができた。

『東京鉱山監督局五十年誌』より
『東京鉱山監督局五十年誌』より

この東京鑛山監督局廰舎の写真では手前の樹木がやや邪魔になっていて見にくいが、(写真-0:06:49)の(イ)の建物と比較してみると(2階および3階の窓の形状や壁面デザイン、1階玄関のキャノピー部)、同一の建物とみて間違いはなさそうだ。

(写真-0:06:49)と(写真-0:06:51)の輪タク運転手の頭部後方に見えている「式會社」の建物の右側面の文字を解読しようと試みたが、うまく解読できずに断念。

(写真-0:06:48)の電信柱広告「三田の冨洋モータース」は当時の住所で「港区本芝下町13番地」にあったことが分かった(『住居表示旧新・新旧対照表』より)。この書籍では「富洋モータース」と記載されていた(「冨」ではなく「富」)。正式社名はどちらなのかはわからない。

(写真-0:06:48)を見ると、ジョー(ハンフリー・ボガート)が乗ってきた輪タクは「東京サイクルカー」のものとわかる。『大和投資資料 第二十一號』の7ページに増資に関する文章が掲載されている。それによると同社は有限会社で1946年12月に設立されたそうだ。「東京サイクルカー」は実在していた会社だったことが分かった。

参考として1948年に撮影された赤坂溜池町付近の空中写真を示しておこう。この空中写真は、国土地理院がWebで公開している「USA-M859-111」をトリミングしてコメントを付加したものである。

USA-M859-111
USA-M859-111(1948/03/29撮影)

まとめ

これまでの調査で明らかになった事により、<亞炭産業會館>は当時の住所で「港区赤坂溜池町11番地」(現・港区赤坂2-4-5)に建っていたと結論付けても構わないであろう《35.671900966779496, 139.74110822026032》。また、(写真-0:06:49)と(写真-0:06:51)は映画のお話上の通り<亞炭産業會館>を背にして撮影されていることが判明した。現在、<亞炭産業會館>の跡地は赤坂グリーンクロスというビルになっている。そしてそのお向かいにあった中小企業庁(戦前は東京鑛山監督局)の跡地は首相官邸の敷地となっている。

最後に現在の写真を示して本調査を終わりにしたい。ここまでお付き合いいただき、感謝いたします。

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赤坂グリーンクロス(2025年3月)
赤坂グリーンクロス(2025年3月)
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首相官邸(2025年3月)
首相官邸(2025年3月)

【参考資料】

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