『泥だらけの靑春』を考える 〈本館〉

泥だらけの靑春

『泥だらけの靑春』(1954年、日活)のロケ地を紹介しよう。名優菅井一郎の第一回監督作品。

本ページに関して、ミスの指摘、情報提供等ございましたら「お問い合わせ」ページよりお知らせください。


写真下に記載した「h:mm:ss」は、本編開始時からの経過時間です。おおよその経過時間と考えてください。映画本編のキャプチャ画像を時系列順に並べて、説明をしていきます。

文中に《数字,数字》 の箇所がありますが、これはグーグルマップで認識する緯度経度です。リンクを張っているので現在の地図を参照することができます。また、この緯度経度を使用してグーグルマップで検索するとその場所が表示されます。

画像にカーソルを重ねたとき「指」の形状に変化する画像は、クリックすると拡大表示されます。


【ロケ地紹介】

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東京駅(2025年1月)
東京駅(2025年1月)

(写真-0:08:50)、(写真-0:08:54)、(写真-0:08:55)、(写真-0:08:57)、(写真-0:09:00)はキャメラが右方向へパンしていく様子。ここはすぐお分かりだろう。東京駅丸の内南口付近から八重洲口方面を眺めている。(写真-0:08:55)に写っている建設中のビルはおそらく大丸百貨店東京店だと思われる。同店は1954/10/20にオープンしている。(写真-0:08:57)の左側には八重洲口前にあったヤンマー東京ビルが見えている(壁面に「ヤンマーディーゼル」と書かれている)《35.679911891444085, 139.76924893842872》。現在は、付近の再開発とともに新しいビルに建て替えられている。このシーンは東京中央郵便局の上層階から撮影しているのかもしれない。

0:09:06
0:09:06

(写真-0:09:06)は新橋駅のホームに進入してくる東海道線下り電車である《35.66766632940542, 139.75822720619806》。以降のシーンを見てみると当時は東海道線と山手線の2路線のレールしか存在していないことが分かる。この2路線の高架の間には路地があってキャバレーなどがあったようだ。「アルバイト ロン純情」の看板が見えている、サロンの「サ」の字が屋根で隠れているようだ。「アルバイトサロン」は「アルサロ」と略すことが多い。

0:09:14
0:09:14
二葉橋架道橋下のマンホール(2024年9月撮影)
二葉橋架道橋下のマンホール(2024年9月撮影)

(写真-0:09:14)は(写真-0:09:06)の二葉橋架道橋の下の道路を渡る加地茂樹(三國連太郎)と里村東介(山内明)。都電の軌道も写っている。

東京府_○_0001

2人の足元にマンホールがあるのにお気づきだろう。このマンホールの中央のマークは東京府(1868~1943年)の紋章のようだ。筆者が採取した同タイプのものを示しておこう。採取場所は失念してしまったが、このタイプの蓋は杉並区役所前の歩道にも設置されている。街歩きの際に気を付けてみると新たな発見があるかも…。

0:09:32
0:09:32

(写真-0:09:32)、新橋と言えば「十仁病院」。1938年に開院したそうだ。当時は主として外科・泌尿器科を診察していたという。戦後になって美容整形外科も診療科目に加わり、そちらがメインになったそうだ。銀座八丁目への移転に伴って「十仁美容整形」と改称している。

0:09:39
0:09:39
二葉橋架道橋脇(2024年9月撮影)
二葉橋架道橋脇(2024年9月撮影)

(写真-0:09:39)、2人が入って行くのは山手線の内回り側の路地。架道橋下の煉瓦の壁面(二葉橋架道橋の銘板のある部分)に十仁病院の大きな看板が掲げられていたようだ。

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山手線高架脇の路地(2024年9月撮影)
山手線高架脇の路地(2024年9月撮影)
二葉橋架道橋脇(1954年)
二葉橋架道橋脇(1954年)

(写真-0:09:42)、(写真-0:09:46)、2人の目的地は「小川映画俳優協会」で映画のエキストラの斡旋を行っているところ。仕事探しにやって来たのだ。その隣は(写真-0:09:06)の左端に写っていた「アルバイトサロン純情」の事務所入口になっている。店舗は高架下にあって、高架の両側から出入りできるようになっているようだ《35.668047855083834, 139.75794110681397》

0:12:25
0:12:25
ウェーヴ通りから旧東横新館方面(2024年9月撮影)
ウェーヴ通りから旧東横新館方面(2024年9月撮影)
大和田小路から東横新館を見る(1955年)
大和田小路から東横新館を見る(1955年)

(写真-0:12:25)は、なかなか貴重なカット。ビルのど真ん中から鉄道線が飛び出している。そう、ここは渋谷の営団地下鉄(現・東京メトロ)銀座線が玉電ビルに出入りする部分(道玄坂側)。映像では足場が組まれて工事中の模様(東横百貨店新館の増築中)。壁面に階数を表す数字が表示されている。一番上は「11」になっている。玉電ビルは4階だったものを11階建てに増築している様子が写っているのだ。この新館には東横百貨店(後の東急百貨店)西館や東横ホールなどが入っていた。渋谷駅周辺の再開発に伴い、古い建物はことごとく解体されて新たなビルに生まれ変わろうとしている。東急百貨店はすべて解体されているので2024年9月の写真には百貨店新館は写っていない。後に出てくる(写真-0:21:48)では、日中の映像で銀座線電車が写っているので分かりやすい。そちらも参照されたい。

春日父娘(大町文夫・乙羽信子)が経営する「キッチン三平軒」は大和田小路にある《35.658206513604085, 139.69987550965388》。現在の三菱UFJ銀行渋谷支店のある付近であろうか、2024年現在は区画整理で細い路地などは消滅してしまっている。一階が店舗、二階で生活しているようだ。現在の渋谷駅前は人が暮らす町ではなくなっているが、当時は人々が暮らす住宅街でもあったことが分かる。

0:15:48
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0:16:13
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猿楽橋(1965年)
猿楽橋(1965年)

(写真-0:16:13)は、加地茂樹(三國連太郎)と春日奈々子(乙羽信子)が連れ立ってアパートに帰る途中のシーン。(写真-0:15:48)の電車のヘッドマークに「山手」とある。跨線橋の下を走るのは山手線、(写真-0:16:13)の奥で右から左へ電車が走っている(静止画ではわかりにくいが動画でははっきりわかる)。そう、ここは数々の映画のロケ地になっている渋谷の猿楽橋である《35.6536382541578, 139.7054532965802》。猿楽橋のシーンの画面奥、右から左へ走る電車は東横線である。

猿楽橋の親柱_202409

左の写真は2024年9月に撮影。
猿楽橋の歩道に建っている街燈は、残念ながら現在は残ってはいない。親柱上に建っている街燈は鉄柱部分だけは現存しているが、電球は撤去されている。電球が固定されていた腕部分は残っている。

0:16:30
0:16:30
東横線の跨線橋1(2011年4月撮影)
東横線の跨線橋1(2011年4月撮影)
四反道跨線人道橋脇(2024年12月撮影)
四反道跨線人道橋脇(2024年12月撮影)
四反道踏切脇(1965年)
四反道踏切脇(1965年)
0:16:39
0:16:39
四反道跨線人道橋1(2024年9月撮影)
四反道跨線人道橋1(2024年9月撮影)
四反道踏切1(1965年)
四反道踏切1(1965年)

(写真-0:16:39)は踏切を渡る里村東介(山内明)。直前のシーンは(写真-0:16:30)、これに写っている跨線橋はどうやら山手線を跨ぐ東横線のものらしい《35.65215842259064, 139.70659858075766》。東横線が地下化されたため現在では渋谷駅~代官山駅間の高架や架道橋は撤去されており、現在の跡地は遊歩道や商業施設などに建て替えられてしまっている。踏切正面の「栄アパート」(「ナントカ栄アパート」かもしれないが)は、1965年の地図では東京都交通局の寮となっていた。現在は都バス渋谷営業所の車庫になっている。この踏切も現在は廃止され、代わりに人が渡ることができる跨線橋(四反道跨線人道橋)が設置されている。この跨線橋は老朽化のため2022年8月より建て替え工事が始まっている。ちなみに「四反道」は「したんどう」と読むようだ。「四反町(したんまち、したんちょうのどちらかは不明)」は渋谷町時代にあった地名である(現在の「渋谷区東三丁目」)。後に示す(写真-0:49:33)はこの栄アパートの外階段辺りから踏切方面を写しているのだが、画面奥に東横線の架道橋が見えている。これにより踏切のあったおおよその場所は分かると思う。四反道跨線人道橋は1966年に開通したというので踏切の廃止も同時期だったと思われる。現地に行って観察してみたのだが、踏切のあった痕跡は見つからなかった。

ところでこの廃止された踏切の名称だが、「四反道踏切」と呼ばれていたようだ。文献『鋼材使用による急速施工例調査報告書 : 陸上交通施設』(日本鋼構造協会鋼材使用による急速施工特別委員会著、1967年)の225ページに記載されてる。

余談だが、山手線(山手貨物線は除く)に現存している唯一の踏切「第二中里踏切」(駒込駅と田端駅の間)も廃止に向けて道路整備が行われている。廃止は2029年頃を予定しているらしい。

0:19:03
0:19:03
新宿三丁目交差点(2024年9月撮影)
新宿三丁目交差点(2024年9月撮影)
新宿三丁目交差点(1950年)
新宿三丁目交差点(1950年)

(写真-0:19:03)は、加地茂樹(三國連太郎)が雨中にフィルム運びのアルバイトを行っているシーンに挿入されるカット。ここは新宿三丁目交差点で画面左上の建物は伊勢丹《35.691004892246035, 139.70480094705806》。壁の照明やその下の銘板の位置は現在と変わっていない。当時この伊勢丹の向かいには新宿日活映画劇場(旧・帝都座)があった。撮影はこの映画館の上層階から行ったのではなかろうか。

余談だが、1950年の地図で新宿日活映画劇場の右側に「千代田銀行新宿支店」があるが、これは現在の三菱UFJ銀行の前身「三菱銀行」のことである。戦後の一時期は「千代田銀行」に改称していたのだ。

0:19:13
0:19:13
渋谷スクランブル交差点(2024年10月撮影)
渋谷スクランブル交差点(2024年10月撮影)
渋谷ハチ公前交差点(1951年)
渋谷ハチ公前交差点(1951年)

(写真-0:19:13)は、フィルム運びをしている加地茂樹(三國連太郎)の後ろ姿。画面奥には架道橋とホーム、右端には都電が見えている。都電の奥には駅舎の一部が見えている。そう、ここは渋谷駅の西口(ハチ公前口)である《35.6595799219032, 139.70028172882365》。当時、都電乗り場は<西口(ハチ公前口)=青山方面行>と<東口=天現寺方面行>に分かれていた。

<参考意見>

0:19:41
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0:20:12
0:20:12
調布銀座(2025年1月撮影)
調布銀座、(2025年1月撮影)
調布銀映前付近(1970年)
調布銀映前付近(1970年)
調布銀映前付近(1962年)
調布銀映前付近(1962年)

(写真-0:19:41)は加地茂樹(三國連太郎)がやっと劇場に到着したところ。ここはどこの映画館であろうか。最大のヒントは(写真-0:20:12)で里村東介(山内明)が出発するシーン、画面奥に富士銀行(現・みずほ銀行)があること。残念ながら劇場のスクリーンで見ても解像度が悪く、支店名までは読み取ることができなかった。もうひとつ、画面右端の立て看板に「府中競艇」とある。何となくではあるが23区内ではなく多摩地域のような気がする。日活の公式サイトの本作の紹介ページに記載されているロケ地の中に「調布市」とあった。そこで日活の撮影所のある調布市の当時の地図を調べてみることに。するとドンピシャリ、映画館と富士銀行の位置関係が映像のとおりの場所を見つけた。その映画館は「調布銀映座」or「調布銀映」《35.65356019944159, 139.54230142116268》。Webサイト「消えた映画館の記憶」の記述によるとこの映画館は1952年に開館、1962年頃に閉館となったらしい。1962年の住宅地図には載っているが1970年のものには載っていない。

残念ながら、一連のシーンでは映画館の周りの様子は写っておらず本当に「調布銀映座」or「調布銀映」だと特定するには至っていない。ここで述べた(写真-0:19:41)の一連のシーンのロケ地は、あくまで<参考意見>と考えていただきたい。

オマケ

この映画館の内外に掲げられている映画のポスターから作品名を拾い上げてみよう。

 「犯罪都市」(1951年、RKOラジオ映画) 館内
 「浅草の夜」(1954年、大映) 館内、館外
 「鉄火奉行」(1954年、大映) 館外 
 「愛の山河」 館外 → 本映画の劇中作品

 「恋しぐれ 浅間の火祭」(1954年、東映) 3本立看板
 「弥次㐂多」(1954年、東映) 3本立看板
 「母時鳥」(1954年、大映) 3本立看板

この映画館は邦画3本立が基本のようだ。東宝、松竹、日活作品のポスターはなかったように思う。

0:20:23
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新宿三丁目裏通りからビックカメラ方面(2024年9月撮影)
新宿三丁目裏通りからビックカメラ方面(2024年9月撮影)
新宿三丁目斗六鮨前(1950年)
新宿三丁目斗六鮨前(1950年)
0:20:28
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0:20:33
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新宿三丁目裏通りから明治通り方面(2024年9月撮影)
新宿三丁目裏通りから明治通り方面(2024年9月撮影)
伊勢丹前バス発着所(1950年)
伊勢丹前バス発着所(1950年)

(写真-0:20:23)、(写真-0:20:28)は、フィルム運びをしている加地茂樹(三國連太郎)と里村東介(山内明)。さて、ここはどこだろうか。決め手は(写真-0:20:28)の奥の建物に「安田火災海上保険」(支店名は読み取れず)の建物とK.T.R.バス(京王バス)の運行区間(伊勢丹前←→中野駅)。京王バスで「伊勢丹前」なので当時の地図を見て分かった。伊勢丹のそばの明治通り沿いの一角にバス停が存在していた《35.69046896297264, 139.70447635317726》。当時の地図を見ると(写真-0:20:23)に写っている「斗六鮨」も記載されている。「斗六鮨」の通りは飲食店が並んでいて賑やかそうだが、現在はビルの谷間の路地で人通りはほとんどない。

0:20:36
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大塚家具新宿ショールーム前(2024年9月撮影)
大塚家具新宿ショールーム前(2024年9月撮影)
新宿松竹映画劇場(1950年)
新宿松竹映画劇場(1950年)
0:20:42
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甲州街道新宿駅南口方面(2025年1月撮影)
甲州街道新宿駅南口方面(2025年1月撮影)
新宿松竹映画劇場付近(1950年)
新宿松竹映画劇場付近(1950年)

(写真-0:20:36)はフィルム運びをしている里村東介(山内明)が自転車で通り過ぎる直前のカット。里村東介(山内明)が画面右に入ってきた彼を流し撮り(左へパン)したのが(写真-0:20:42)。

(写真-0:20:36)は松竹系の映画館と分かるがどこだろうか。この画像の右端の「中華そば」の看板の右端には濃淡のある斜めの縞々が見える。これは床屋のマークに似ている。(写真-0:20:42)にて、右側の建物の屋根上のネオン表示をよく見ると「樂■ルテホ」と読めそうだ。その下部に写る文字は「さく■」のように読める。これらをヒントに探してみると(写真-0:20:36)の映画館は新宿駅の現・南口近く、甲州街道沿いにあった新宿松竹映画劇場らしいことが分かった《35.68986196041796, 139.7033909745695》

1950年当時の地図を見ると映画館の右側には床屋、映画館から新宿駅方面には「さくらサロン」、「後楽ホテル」があるので本編はここで撮影されたものと考えて間違いないであろう。2025年1月撮影の写真でグレーのシートで被われているビル(壁面工事中?)が「後楽ホテル」の跡地。

映画館正面入り口には大きく「冷房完備」とある。現在では冷房は当たり前だが当時は<特別>なものであったことが分かる。新宿松竹映画劇場の跡地の現在は「大塚家具新宿ショールーム」となっている。ちなみに新宿松竹映画劇場は1960年頃に現在の新宿ピカデリ―の場所に移転したらしい。

0:21:48
0:21:48

(写真-0:21:48)は「キッチン三平軒」の二階の窓から見た増築中の東横百貨店新館。銀座線電車が通過している。夜のシーンは(写真-0:12:25)を参照。

工事の足場に掲げられている垂れ幕に「渋谷江ノ島間急… 六月二…」とあるのは東急バスが運行していた急行バスのことだろう。東急電鉄の年表によると1954/6/26がこの路線の運行開始日となっているのでこの垂れ幕は、この路線の運行開始を知らせる宣伝だったようだ。

もうひとつの垂れ幕「東急直営 沼津牛… 近代的バンガ…」の方ははっきりとは分からなかったが次のようなことではと想像している。沼津市には牛臥山(うしぶせやま)公園があるが、ここに近代的バンガローのある東急直営の宿泊施設でもあったのではなかろうか。垂れ幕の「牛」の下の文字は「臥」が見切れているような感じがする。

0:39:40
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新有楽町ビルヂング(2025年1月撮影)
新有楽町ビルヂング(2025年1月撮影)
丸ノ内日活劇場付近(1955年)
丸ノ内日活劇場付近(1955年)

(写真-0:39:40)は加地茂樹(三國連太郎)が出演した『肉体の暴風』を上映する劇場正面。ここは日活の旗艦劇場「丸ノ内日活劇場」《35.67599869389693, 139.76161420208322》。この劇場の跡地は新有楽町ビルヂングとなったが、このビルも有楽町地区の再開発のために建て替えられることになり2023年に閉館。2025年1月現在、解体作業待ち状態が続いている。

余談だが、1955年の地図の丸ノ内日活の下方に「オリオン座」があるが、その左隣には丸の内スバル座があった。しかし丸の内スバル座は1953年に火災で焼失したためこの地図には載っていない。1966年に同地に建てられた有楽町ビルヂング内に「有楽町スバル座」として復活。しかし、ビルの閉館前の2019年に閉館してしまった(有楽町ビルヂングは2023年に閉館)。

0:41:15
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0:41:22
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(写真-0:41:15)、(写真-0:41:22)は丸ノ内日活劇場内の様子。なお、この劇場は1949年に開館、1964年頃に閉館したそうだ。

(写真-0:41:15)の階段下に展示されている絵画は東郷青児の作品のように見えるが…。とある美術館に問い合わせをしてみたら、東郷青児の「旅人」ではないだろうかとの回答を頂戴した。ただ、東郷は同一の構図で複数の作品を発表しているらしいので確定はできないようだ。現在、「旅人」は福岡市美術館に所蔵されているそうだ→コチラ。福岡市美術館のサイトに記載されている絵画のサイズは(写真-0:41:15)に写っているものとほぼ同じ大きさと思える。「旅人」は1951年に制作されてるので映画館の開館時から展示されていたわけではないようだ。

0:49:33
0:49:33
東横線架道橋2(2011年4月撮影)
東横線架道橋2(2011年4月撮影)
四反道跨線人道橋2(2024年9月撮影)
四反道跨線人道橋2(2024年9月撮影)
四反道踏切2(1965年)
四反道踏切2(1965年)

(写真-0:49:33)は加地茂樹(三國連太郎)と北野(下條正己)が里村東介(山内明)の部屋を訪ねた後、帰っていくシーン。(写真-0:16:39)の栄アパート側から山手線の踏切方面を写している《35.65202236215579, 139.70719009104545》。画面奥、自動車の上部に東横線の架道橋が写っている。現在、東横線の渋谷駅~代官山駅間は地下化されたのでこの架道橋は撤去されている。

0:56:30
0:56:30

(写真-0:56:30)はコチラに向ってくる山手線電車内回り電車。画面奥には、増築工事中の東横百貨店新館と東横百貨店本館との連絡通路。山手線の右には渋谷貨物駅。ということで、キャメラがいるのは猿楽橋の上となる《35.65363812730499, 139.7054808013759》

0:56:37
0:56:37

(写真-0:56:37)は猿楽橋(渋谷駅側の歩道)のある八幡通りを歩く春日奈々子(乙羽信子)と里村東介(山内明)。画面奥の「通安全」と書いていあるのは東横線の架道橋。「交」の字は街路樹で隠れているようだ。この架道橋の奥が明治通りと交差する並木橋交差点。

0:57:05
0:57:05
猿楽橋(1965年)
猿楽橋(1965年)

(写真-0:57:05)は道の反対側(恵比寿駅側の歩道)に渡った春日奈々子(乙羽信子)と里村東介(山内明)に声をかける小川映画俳優協会代表(山田禪二)。

0:57:08
0:57:08
猿楽橋から恵比寿方面(2011年4月撮影)
猿楽橋から恵比寿方面(2011年4月撮影)
猿楽橋から恵比寿方面(2024年12月撮影)
猿楽橋から恵比寿方面(2024年12月撮影)
猿楽橋(1965年)
猿楽橋(1965年)

(写真-0:57:08)は猿楽橋の恵比寿駅側の歩道にいる春日奈々子(乙羽信子)と里村東介(山内明)が小川映画俳優協会代表(山田禪二)に呼びかけられて振り向いたところ。2人の後方には東横線の跨線橋、その奥に同じ高さの煙突が4本並んでいるのはヱビスビール工場。この当時は見晴らしがよかったことがわかる。

余談だが、この猿楽橋は老朽化のため架け替えが計画されている。このための準備作業だと思うが渋谷駅側の歩道は閉鎖されており、通行できなくなっている。架け替えに関しての情報はコチラの渋谷区のサイトに詳しい。

1:11:05
1:11:05
KEC銀座ビル(2025年1月撮影)
KEC銀座ビル(2025年1月撮影)
東京フィルムビルディング(1950年)
東京フィルムビルディング(1950年)
東京フィルムビルディング全景

(写真-1:11:05)は加地茂樹(三國連太郎)がビルから出てくるのを待っている北野(下條正巳→冒頭のクレジットでは「下條正己」)のシーン。出入口上部には「東京フィルムビルディング」と書かれている。所在地を調べるのには手こずったが、当時の住所で「中央区銀座東3-2」と判明、現在の住所は「中央区銀座3-10-9」《35.67091299671308, 139.7679357417519》。写っている出入口は昭和通りに面していたようだ。1950年の地図では「東京フィルム配給会社」と記載されている。このビルには、ワーナーブラザースや20世紀フォックス等の映画会社が入居していたらしい。
左の写真は東京フィルムビルディングの全景(雑誌「建築文化」1953年6月号)。

1:27:34
1:27:34

(写真-1:27:34)は酔った加地茂樹(三國連太郎)が立ち去ろうとしているカット。後方にでっかく「BEER HOLL」(直訳で“ビール全部”)。本来は「BEER HALL」だと思うが、誰も気づかなかったのだろうか。

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権之助坂商店街(2025年1月撮影)
権之助坂商店街(2025年1月撮影)
権之助坂商店街(1966年)
権之助坂商店街(1966年)

(写真-1:29:06)は、里村東介(山内明)と春日奈々子(乙羽信子)の結婚披露宴のシーン。窓の外のネオンに「香港飯」と見える(「店」の字は隠れて見えないようだ)。(写真-1:31:24)は、披露宴に顔を出した加地茂樹(三國連太郎)が店の外をトボトボ歩いていく様子。この坂道を登り切ったところの大通りに出たところが(写真-1:31:47)。さてこの通りはどこであろうか。続くカットにヒントが写っていた。

1:32:01
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1:32:13
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権之助坂付近(1966年)
権之助坂付近(1966年)

(写真-1:32:01)の奥の看板には文字が見切れているものの「GA-JO-EN-KANKO-HOTEL」と読めそうだ。おそらく「雅叙園観光ホテル」のことであろう。(写真-1:32:13)の看板には「菊冨士ホテル」、ちょっと判別しにくいが「蒲焼 太鼓鰻」と読めそうだ。雅叙園とあるので目黒駅近くではないかと当時の住宅地図を探してみるとありました。権之助坂の途中に(写真-1:31:47)に写っている店舗が存在しているのでロケ地はここに間違いはなかろう《35.63451252626608, 139.71265848443642》。映像では「フルミエ」と見えたのは「プルミエ」だったようだ。雅叙園観光ホテルは目黒雅叙園に隣接して建てられていたそうだが1997年に親会社が倒産したため廃業したらしい。太鼓鰻(1966年の地図では「割烹大鼓」となっている)は目黒川に架かる太鼓橋の袂で営業していた鰻屋さんだが、現在は閉店している(おそらく廃業)。Web情報では創業300年の老舗だったが、2010年頃に閉店したらしい。菊冨士ホテルの詳細は不明だが、当時の住宅地図には掲載されている。

映画では(写真-1:31:24)の坂道を登り切ったところが権之助坂の途中(写真-1:31:47)という編集がなされているが、よく見ると香港飯店のある坂道を登りきったあたりで権之助坂のカットに切り替わっている。どうやら香港飯店のある坂道は実際には権之助坂に繋がる道ではなく全く別の場所で撮影されているように思われる。残念ながら、この香港飯店のある坂道のロケ地は不明である。

同様に(写真-1:32:01)の宣伝看板が写るシーンは、(写真-1:31:47)の商店街の向かい側にあるような編集がなされているが、実際には別の場所で撮影しているように思われる。こちらのロケ地も不明。

結婚披露宴を行っていた香港飯店は映画用の架空の店舗であろう。念のため国会図書館に所蔵されている一番古い電話帳、昭和40年の職業別で調べてみると「香港飯店」と名乗る店舗は2店で中央区と港区なので、やはり本作とは関係はなさそうだ。

現在の権之助坂は北側にバイパス道が存在しており、バイパス道は坂の上り方向の一方通行、旧道の方は坂の下り方向の一方通行となっている。このバイパス道は1968年に完成したそうだ。(写真-1:31:47)で見えている商店付近はちょうど旧道とバイパス道との分岐合流地点にあたっているため当時の面影はまったく見当たらない。

【終わりに】

個人的にはまだまだ調べ足りない部分もあるのだが、一旦ここで筆を置くことにする。新たに分かったことなどはその都度追加していきたいと思う。長文の発表にお付き合いいただき、感謝いたします。

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【参考資料】

下記の書籍やWebサイトを参考にさせていただいた。作者の方々には心より御礼いたします。ありがとうございました。

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【編集履歴】

  • 2025/01/31:初版公開

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