2020/5/24
はじめに
地元にかつて存在した鉄道の廃線跡を歩いてみた。今回は、東急玉川線、通称玉電(たまでん)の二子玉川園駅から砧本村駅を走っていた砧線を訪ねた。二子玉川園駅から砧本村駅間(2.2km)で中間には中耕地、吉沢のふた駅があった。渋谷~二子玉川園間の玉川線と同時に1969年5月に廃止となる。
ちなみに、1944年頃までは吉沢駅と砧本村駅の間にも二つの駅(伊勢宮河原駅と大蔵駅)が存在していたと記録にある。
なお「二子玉川園駅」は現在では「二子玉川駅」と名称変更している。本レポートでは、廃線当時の駅名で表記する。
距離(キロ) | 駅名 | 駅名よみ |
---|---|---|
0.0 | 二子玉川園 | ふたこたまがわえん |
0.5 | 中耕地 | なかこうち |
1.1 | 吉沢 | よしざわ |
2.2 | 砧本村 | きぬたほんむら |
まずは全線の線路跡を現在の地図に重ねてみる。二子玉川園駅から砧本村駅に向かって歩いてみよう。地図をクリックすると拡大します。
出発進行
(写真-1)はかつて二子玉川園駅砧線ホームだったと思われる辺りから砧方面を見たもの。矢印のように線路があったのではと想像する。ちなみに渋谷へ向かう玉川線は、右の高架部分の専用軌道を走っていた。
(写真-2)は、(写真-1)の通りを渡ってから見たもので、正面の繁茂する樹木辺りが廃線跡ではと想像できる。
(写真-3)は、(写真-2)の樹木の向こう側を田園都市線の高架側から見たものである。柵の向こう側に線路があったのではと思われる。この柵は鉄道線路の脇によくあるようなタイプ。
(写真-4)は玉川通り(国道246号線)を背にして二子玉川園駅方面を見たものである。線路は、二子玉川園駅から二子玉川インの裏辺りを左にカーブしながら玉川通の踏切へと向かっていたようだ。
(写真-5)は、玉川通を渡って行くところ。ビルの間の細い道が線路跡。現在は「花みず木通り」と命名されている(写真-6)。
中耕地駅のあった場所には標柱が建てられている(写真-8)。その正面の店舗前の地面には埋め込みパネルも見られる(写真-9)。当時の電車が描かれているマンホールも数か所ある(絵柄は皆同じ)。現在、砧線跡は吉沢駅手前の吉沢橋交差点まで遊歩道になっている。
中耕地駅からほんの少し砧本村駅寄りに「砧線軌道跡」モニュメントがある。人が背中合わせに座っているような彫刻。何を意味するんだろう?。
さらに歩くと、ファミリーマートが見えてくるが、その正面辺りに古レールを使った手摺りが設置されている。支柱部分には電車の絵が描かれている。簡単に眺めてみたが、レールの刻印は見つけられなかった。
ファミリーマートの砧本村駅寄りにも標柱(写真-14,15)がある。
吉沢橋交差点へ向かう部分はかなりの急カーブ。歩行者と自転車専用道路になっている。
吉沢橋交差点の脇にここに線路があったことを示す痕跡がしっかり残っている。この辺りに吉沢駅があったようだ。(写真-18)の左下に写っている境界票がそれ。(写真-20)が拡大したもの。分かりにくいが、大東急時代のレールの断面に翼がついてるような社章が刻印されている。ここから数メートル砧本村駅寄りにはマンションの入口脇にかなり鮮明な大東急マークの境界票も二箇所生き残っている。ここには合計三つの境界票が現存している(写真-19)。廃線されてから半世紀ほど経過して町は相当様変わりしているが、このような痕跡が残っているのはとても貴重。
吉沢駅駅を出るとすぐ野川を渡る鉄橋跡の橋がある。橋の途中に鉄橋を渡っている電車の写真付きの解説パネルが設置されている(写真-25)。欄干には電車のレリーフもはめ込まれている(写真-26)。
線路は、東京都市大学総合グラウンドの前を通り過ぎて(写真-27)、砧本村駅へと向かう。現在この通りは二子玉川~砧本村間の路線バスが行きかっている。
鎌田二丁目南公園のやや二子玉川園寄りに鉄道遺構っぽい鉄塔が残っている。天辺には半鐘を吊り下げていたようなので消防用の櫓として使っていたのかも知れないが、その前は鉄道用だったのかもと思いを巡らせる。
鎌田二丁目南公園の奥の方に砧本村駅があったそうだ(写真-27)。
(写真-31)は元砧本村駅駅前広場のようす。現在は路線バスの終点となっており、水色の待合所は、砧本村駅で使用されていたものを移築して利用しているとのこと。当時の地図によると(写真-31)の左側辺りに砧本村駅のホームがあったようだ。この写真の左側に鉄道柵が残された空き地があるが(写真-32)、ここに線路があったのだろうかと想像できる。
すぐ脇には砧下浄水所があり、かつてはここから水を駒沢給水塔へポンプで汲み上げ、重力を利用して渋谷の町へ生活用水を供給していた(澁谷町水道)。現在のこの辺りは住宅地となっているが、川砂利の積み込み場所だった歴史がある。ここで積んだ砂利を渋谷へ運んで建築に利用していた。都市の発展の縁の下の力持ちだったようだ。現在ではそんなことが行われていた痕跡はほとんどなくなってしまい、忘れ去られようとしている。残念なことである。
おまけ
最後に、現在はコロナ禍のため休館している施設「玉電と郷土の歴史館」を紹介したい。もともとは蕎麦屋さんでご主人が趣味で収集した鉄道グッズを店内に展示していた。その後、蕎麦屋は廃業したが展示は続けているという。マンションの一階にあり、入口は砧線と並行して走るバス通りに面している。建物の向こう側が線路跡になる。先ほどのファミリーマートからやや砧本村駅寄りに位置する。再開したらぜひ足を運びたい。
参考資料
- 日本鉄道旅行地図帳 5号 東京(新潮社)
- goo古地図
- ウィキペディア(東急玉川線)